凝り固まった思想の危険性〜人付き合いの考え方〜

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こんにちわ!モリタです!

 

とてもとても興味深い記事でした。

headlines.yahoo.co.jp

 

自分も同じように思っていた時期を経て、着地点は蛭子さんとは異なる地点に着地しました。
今回はこのことについて話していこうかと思います。


凝り固まった思想の危険性

この記事のインタビュアーの方も、蛭子さんの度重なる「友達」という存在へのネガティブな発言に難色を示しています。
それはきっと「友達」という言葉に対して眩い光を感じているからだと思います。

 

小さい頃から様々なシーンで友達は素晴らしいと教えられているので仕方ないことだと思います。
大変の人が「友達」や「友情」についてネガティブなことを言うと、否定的な感情を持つと思います。

 

そもそも友情という定義が異なっているということも考えられますが、
それでも僕は盲目的に友情や愛情を素晴らしいものと言い張ることは嫌いです。

 

良い要素ばかりを集めての友情なんでしょうが、それは輝かしい舞台スターが見せる舞台上での表情のように、
輝かしい部分だけをピックアップしているだけに過ぎない気がしてます。

 

その輝かしい目的地に身を置くことが出来た人は友情は素晴らしいと心から言えるでしょう。
ですがみんながみんなそんなにうまくいくわけではないです。
きっと途中で挫折して、それでももがいて自分の居場所を探して。
それに対して「もっと友達を作りなさい」なんて言葉は無慈悲にもほどがあるんじゃないかと。

 

多分、、蛭子さんも途中で諦めてしまったんじゃないでしょうか?
最初は友情という輝かしいものを手に入れようとしてたと思いますが、それはただ一部に過ぎない姿なんだと。

 

そもそも「公式」がおかしい

友達100人できるかな」という歌もあるくらいですから、
友達は多い方が良いという考え方は昔からあるのだと思います。
それはもちろん良いこともたくさんあるでしょう。

ですが、
友達少ない=可哀想な人
っていう公式はそもそも違いますよね?

 

この公式を押し付けてくるような思想は僕は大嫌いです。

 

散々言っていますが、この世には色々な人がいます。
色々な意見があって良いと思います。

 

深い付き合いはしない
こう蛭子さんがおっしゃってますが、とてもよくわかります。
友達は少なからずこんな僕にもいますが、
友達といることはそれなりに疲れます。

 

そもそもですが自分は恋人や家族も含め、だれかがいると気を使ってしまい疲れちゃうんです。
だから嫌だとか、ストレスとかそういうのではなく、単にそういう性格なんだと思います。

 

それで、なんでそうなったかっていうと、
自分も小学生の頃、いじめ。。。ではないですが、いじられる方でした。
いわゆるガキ大将とは真逆の人間だったもので、
いじられる方が多かったですね。

 

それが嫌だったんです。
冗談で叩いてくるとかも嫌だったんです。
でも怒るのも面倒でした。
たどり着いた結果が「笑う」でした。

 

でも笑ってるからどんどんエスカレートしていくんですよね。

 

結果的に学校が大嫌いになりました。
勉強がとかではなく、人付き合いが面倒で。

 

それからしばらくは人間嫌いになるわけですがw

 

なので蛭子さんの言っていることはとてもわかりますし、一種の立ち振る舞い方としてありだと思います。
どこか諦めたように、冷めたように言葉を紡いでる姿は、とてもあの柔和な姿からは想像出来ないほどの、圧倒的な諦めを感じます。
でもきっと自分の場所を確保できたんだなって思うと、やはりそれは一人の人間の出した答えなんだなって。
そう思いました。


ターニングポイントで大きく変わる

そんな人間嫌いのまま小・中学生を過ごした僕ですが。
現在は割と人付き合いを重視しています。

 

ありがたいことにそれなりに慕ってもらえるような環境になりました。

 

僕を人間嫌いから救ってくれたのは大学時代の友人たちです。

 

12人ほどの友人グループがあり、自分もその中の一人でした。
一緒にフットサルをしたり、飲んでみたり。
しかし一番印象的だったのは引きこもりになってしまった友人を一生懸命助け出そうとしている姿でした。
その引きこもってしまった友人はグループの中の一人。

 

よく漫画やテレビ、音楽で友情や愛情の尊さを声高に歌っていますが、
全然響かなく、冷めた目で見ていたくらいの僕ですが、
この姿に衝撃を受けました。
本当にこんなことがこの世の中にあるのかとw

 

すごいね、、、純粋な奴らだったんですよ。
どんなにクサイこととかでも、おおマジな顔で言ってるような。
そんな奴らなんです。

 

僕は小さい頃から、、その、、、クサイ事をいう節があったんですが、
それをいうとバカにされてまして、それが嫌だったんですよw
だってこっちは真剣に話してるわけですよ?
その表現が一生懸命考えた結果バカにされるんですよ?
親にも。
「あ、自分は普通じゃないんだな」って子供心に思いました。

 

でもそれを平然とやっている仲間がいるんです。

 

そんな環境に出会えて、僕はだんだんと心の氷が溶けていくのを感じました。
本当に、心から楽しく笑える時が来たんです。

 

その時からですね。
僕が人を信用する心を持ったのは。

 

息苦しかったんですよ、人を信じることに。
信じすぎても「お人よし」、警戒心を持ってみたら「もっと信用しろ」
そんなうまいバランスをみんながみんな保てるわけないですって。

 

そういう意味も込めて、
着地点は違えど、蛭子さんの提唱する思想も、
一つの考え方としてとても理解できる、また多くの人に知ってもらいたい考え方だなって。
そう思いました。

 

まとめ

友情・愛情というものは尊いものではありますが、人生において一番必要なものではないと思ってます。
そもそも人生には全てが必要なので、何が一番とかは決められないと思っているわけですが。
でもその中で何を取捨選択していくかということに正解はないと思います。

 

他人の意見は一種の判断材料として持っておき、
自分の一番過ごしやすい生き方を選べるということが1番なんでしょう、きっと。

 

誰かの提唱する正解・不正解は自分にとっても全く同じとは限らないので、
臆することなく、自分のスタイルというものを確立していってください。

 

 

 

。。。。。人に迷惑はかけちゃダメですよ?w
それは不正解なのは確実です。